(以下よりミク 2008年8月27日 10:57より引用)
地方にも優秀なプランナーがいるんですね。私が驚いたのは、会津若松市観光公社のプランニング。 きっと東京の電通マンか何かを雇っているんでしょう。 1. お弁当を持ってくる修学旅行の子供の中には、コンビニ弁当を持ってくる子供がいる。 2. そういう子供のために、市はおにぎりを用意した(注文の電話は子供自身にさせる)。 3. 味噌を塗って青シソを乗せたものと、海苔で巻いた梅干し?(修学旅行の子供のみ)。 白虎隊(当時15〜16歳)や会津若松城の人々は、皇軍と信じていた。彼らは、青森県の下北半島に移住させられる。「やませ」という風が吹いて稲作の出来ない地域。 1928年(昭和3年)日本政府は、秩父宮さま(大正天皇の第二皇子・昭和天皇の弟)に、外交官松平恒雄(旧会津藩主松平容保の四男)の長女節子(勢津子に改名)の輿入れを決定。戊辰戦争(ぼしんせんそう)の「逆賊」の孫との結婚になる。 秩父宮夫妻の結婚式(写真:ウィキペディア) 「戦いははげしさませりあせらじと おもい思えど心いらだつ」秩父宮雍仁(やすひと) 富士の見える御殿場で勢津子さまは、肺結核で療養中の秩父宮さまの看病される傍ら、農婦姿で鍬を握り作物を育てられました。秩父宮さまとともに、農民と野良着姿で畑仕事や家畜(鶏・綿羊・役牛など)の飼育に励まれ、農園の広さはおよそ500坪に及びました。 1953年(昭和28年) 1月4日 秩父宮さま薨去(享年50)、1995年(平成7年)8月25日、勢津子さま薨去(享年85)。 勢津子さまの母は、貞明皇后(大正天皇の妃)の御用係で、明仁親王と平民・正田美智子の結婚に猛反対していた人の一人。右翼まで呼び寄せて反対したと入江日記にはある。戦後の旧皇族の臣籍降下(=皇籍離脱)や華族令の廃止などに続く。 なお勢津子さまに子供はなく、秩父宮家は絶家。勢津子さまの御遺言により、各地の御用邸などはその地方自治体に寄付された。 父の赴任地・イギリス生まれ、少女期はアメリカのワシントンで育つ。父・恒夫は、外交官試験に首席で合格した俊才として知られる。 (以下ウィキペディアより引用) 秩父宮さまは、テニスや登山を好んだ活発な性格であり、上流階級の子弟からなるインテリ層サロンにおける中心人物であった。 陸軍においては宮の存在が政府や海軍への牽制となっていたことなど存在感は非常に大きく、二・二六事件の際、反乱軍将校が秩父宮擁立を画策していた(それどころか秩父宮が反乱将校を実質支持していたとまでする説もあった)。 上品さが違う・・・。 |
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こんばんわ。私は「牡蠣」が苦手なので写真のカキソフトはだめです。大阪のキムチソフトもだめです。やはりソフトクリームはは果物系かチョコか抹茶ソフトがいいです! |
マリモ 2008/08/29 22:40 |
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