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help リーダーに追加 RSS 「よく噛んで食べなさい」

<<   作成日時 : 2008/07/29 06:10   >>

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なんか盛んにマスコミで言われていることだが、おかゆや柔らかく炊きあげた白飯をよく噛む理由がわからない。肉はたんぱく質なので、噛まなくても消化できる。なぜ、マスコミはよく噛むことを奨励するのか?

牛乳を噛んで唾液と混ぜ合わせて飲むことが、学校給食では指導された。ちょっと下品なのではないかい? 日本人は牛乳を飲みつけないので、下痢をする人が多かったのかも知れない。それはそうと、学校給食の脱脂粉乳(スキムミルク)は、「特に臭いが酷かったという意見が多いのが特徴で、これは無蓋貨物船でパナマ運河を経由した為に高温と多湿で痛んだからという説がある。(ウィキペディアより引用)」。

飲まないで川に流されていたのに、なんでアメリカからもらい続けていたのかね? 意味がわからない。

それとは関係ないかも知れないけど、鎌倉の鳩サブレー。


明治三十年頃、初代が異人さんからジャンヌ・ダルクが馬に乗り槍をかざしている図柄が刻まれてあった大きな丸いビスケをもらった。

日本人の船員から「フランスで食ったサブレーちゅう菓子に似とる」ということで、鶴岡八幡宮にいるたくさんいる鳩の形にして鳩サブレーを作った。

初代は、近所の人や、知人に配ったが、犬の餌になっていたことを知る。「バタ臭さ」がダメだったようだ。

大正に入り、医師から「離乳期の幼児食に最適である」、また皇族からもご用命を受けるようになった。

しかし(鎌倉は)、関東大震災を受け、地震、火災、津波でほぼ全滅、店も潰されてしまった(震度は5)。

死者・行方不明者の総数は10万5000人。木造家屋による火災の延焼、瓦ぶき屋根の倒壊、河川沿いの津波による被害者が多かったと見られる。

鎌倉を始め、湘南地方では震災に対する意識が高く、瓦ぶきではなくトタン板(海岸沿いでは石を乗せていた)で屋根が作られている。


瓦ぶきは、中国の文化なんだろうけど、日本ではトタンでいいよ。葦や木は燃えやすいからダメ。

江戸時代には贅沢を諌めるため、床の間や瓦ぶき屋根などは制限されていた。ただ、防火のため瓦ぶき屋根が奨励されたり、義務付けられた町もある。

虫も発生するから葦は、燻蒸しなければならない。だから、囲炉裏になったんだろうね。
人はあるものから、物を産み出していく。石油なんて、要らないのかも。余った物から、漬け物や干物も生まれたんだろうしね。

日本の伝統的な民家は、畳と床の部屋と土間の部屋が大黒柱を中心に結合している。囲炉裏は、畳と床敷きの部屋の中央にある。

地方に残る呼び名としては、炉、地炉、ヒジロ、ユル、ユルイ、ユルリ、イナカ、エナカ、ヘンナカ、エンナカ、イリリ、イレ、シタジロ、スブト、ジリュ、などがある。

また、炭火を用いる火鉢は、山中で無償で入手できる薪に比べ、木炭は貴重な存在であった。←(rinax注: これも中国の影響か?) 古来の製鉄法たたら吹きなどは、木炭によって鉄の純度の高さを保つことができた。

北陸地方に竈(かまど)が作られるのは昭和30年代が中心で、温暖な西日本では夏季の囲炉裏の使用を嫌い、竈との使い分けが古くから行なわれている。


照明
火が主要な照明であった近世以前、囲炉裏は安全に部屋を照らすことのできる手段だった。古くは炉辺の明かし台で松明を燃やして手元の明かりとした。また照明専用具として油や蝋燭がありはしたが、いずれも庶民にとっては高価なものであった。


火種
マッチなどによる着火が容易でない時代、囲炉裏の火は絶やされることなく、竈(かまど)や照明具の火種として使われた。


家族内の序列秩序
家族の成員の着座場所が決まっており、この機能は縄文時代の竪穴式住居の中央に設けられた炉以来引き継がれてきた日本の民家の基本構造とも言える。


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竪穴住居(たてあなじゅうきょ)(登呂遺跡)



中国四川省の西安にも竪穴住居の遺跡がある。アメリカ南西部の人も9世紀ごろまで竪穴住居にいた。排水のため床の周りに溝を巡らしていることも多い。ヨーロッパにもある。
知床半島に近い標津町の伊茶仁(いちゃに)の住居は、竪穴の周りに掘りあげた土から底まで、2〜2.5mもの深さがある。
日本では、土葺、草葺の屋根も多かった。縄文時代中期には、長野県などで石敷の住居も現れる。

縄文時代の岩手県紫波町西田遺跡では、広場を中心に、内側から墓→掘立柱建物→竪穴住居→貯蔵穴の順に同心円状に遺構が配置される。そこでの掘立柱建物は殯(もがり)用の建物(再葬施設)ではないかとする考えがある。いずれにせよ、墓地が円環の中心を占めることから、墓に葬られた人々を祖先とする世界観のもとで日常生活が営まれたことを示唆している。


弥生時代は、魏志倭人伝の記録を待つまでもなく、堀(防御施設)でムラ全体を囲む環濠集落や山城(高地性集落)などの遺構、あるいは遺物など考古資料の面でも戦争の多い時代だったことが知られる。稲作農耕の本格的な進展は水利権や余剰農産物をめぐる争いを招いたものと思われるが、そうした時代状況を反映して、この時期の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)は、軍事的性格を帯びる建物や倉庫的使用のなされた建物(高床式倉庫など)が増加したものとみられる。著名なものとしては、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡出土の土器に描かれた多層式の楼閣が見られる。

掘立柱建物は、地面に穴を掘りくぼめて基礎に板もしくは石を入れる。特に軟弱地盤における沈下防止のためである。今日でも外便所などの簡単な建物では稀に見受けられる。



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堅魚木(かつおぎ)を乗せた入母屋造(いりもやづくり)の弥生時代の家の埴輪


日本においては古来より切妻屋根(きりづまやね)は、寄棟屋根(よせむねやね)より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた。京都御所の紫宸殿や平安神宮大極殿のほか各地の城郭建築でもその壮麗な姿を見ることができる。(切妻屋根とは、二方向に傾斜がある屋根のこと。寄棟屋根とは、四方向に傾斜がある屋根の形のこと)。

入母屋造は、中国、韓国、日本、台湾のほか、ベトナム、タイ、インド、インドネシア等、東洋の寺院でも良く見られる。


古墳時代に入ると、クニとしてのまとまりと豪族相互の序列ができあがってきて、戦争は激減し、集落における軍事的要素は薄まるが、一方で建物が豪族の威容を示すものとして積極的に利用されたことはむしろ増加したと考えられる。

炉は、古墳時代中期になると北側や東側の壁にカマドを設ける住居が出現する。近畿においては飛鳥時代から掘立柱建物(ほったてばしらたてもの )に移行していき、鎌倉時代以降は、関東の一部以外全面的に消失する。

住居としては6世紀末以後から宮殿・官衙・都城建築として掘立柱建物が採用され、平安時代末以後は竪穴住居に代わって一般集落の住居建築の主流となって近世に至る。

一方、瓦ぶきの礎石建物は6世紀末以後の寺院・国衙の中心的な建物、宮殿や高級貴族の邸宅にみられるが、それも客殿など表向きの建物のみで、住居としては伝統的な掘立柱建物が主流であった。


掘立柱建物の屋根はおおむね板葺または檜皮葺(ひわだぶき)で、柱は白木(しらき)が多かったとみられる。土台建ての建物は礎石建物と同時に大陸から移入され、発掘遺構としては痕跡をとどめにくい形式のため数は決して多くないが、官衙や宮殿建築には遺構例がある。なお、現存する世界最古の木造建築である法隆寺金堂(奈良県斑鳩町)にも礎石が用いられている。ただし、金堂とともに最古の建造物である五重塔の心柱は掘立式である。


瓦ぶきは、瓦屋根の重みで建物全体を安定させる必要があり、また、柱上の屋根との接点に複雑な組物をおいて地震や台風の横力を分散させる柔構造の建築である。それに対して掘立柱建物は柱の足元を地中に固定し、柱上に直接桁を置き、草・板・樹皮で葺いた軽い屋根を載せる剛構造であり、この構造は柱の太さに関係なく地震・台風にある程度耐えることができ、建築費が安上がりで技術的にも簡略な方法による大量生産が可能である。


日本では、寺院などの公共的な建築には中国大陸伝来の立派で華やかな礎石建物を採用する一方、日常生活の場である住居には大陸様式ではなく、弥生時代以来の伝統的な生活スタイルを保つために、伝統的で簡素な形式の掘立柱建物を採用した。掘立柱建物の場合は災害によって倒壊しても、木材調達の面から再建が礎石建物に比べてはるかに容易であったものと理解される。

なお、伊勢神宮(三重県伊勢市)の式年遷宮は20年に1回まったく同じ形での建て替えを古来より連綿と伝えてきた行事であるが、ここでは今日でも正殿は堀立柱建物の様式で建てられる。また、奈良県桜井市の大神神社は昔も今も神殿がなく三輪山自体が神殿であるが、大嘗祭の時だけ建てられる正殿は、やはり黒木造の堀立柱建物である。

掘立柱建物の柱は、「地下水面下」に設置しないと酸素の供給によって柱材がきわめて腐食しやすい環境となる。そのため建築基準法施行令第38条6項には、

「建築物の基礎に木ぐいを使用する場合においては、その木ぐいは、平家建の木造の建築物に使用する場合を除き、常水面下にあるようにしなければならない。 」とある。

歴史的にみても、上述のように平城京の建物の大部分は礎石を用いない掘立柱建物で、1m四方を掘り埋めるケースが多かったとみられる。平城京が都城として機能した約70年間で宮内省大膳職では5回の建て替えが確認されている。なお、現代でも礎石を用いない伊勢神宮の場合は20年ごとの改築がおこなわれている。




中世

総柱型建物の登場。当時としては全く新しい建築様式であり、日本独自のものである。建物規模に関係なく柱間間隔は2.0m前後か2.4m前後のものが多いことが掲げられている。

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総柱型建物(母屋)(画像はすべてウィキペディア)




DNA解析によると、日本人は旧石器時代のシベリア系民族C3を基礎にして、大陸からD2がやってきた(アイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本人42〜56%で、朝鮮半島では0%である。近縁のD1,D3がチベットで見られる)。同じ頃、経路は不明であるがインドに起源を持つC1が南方から入ってきた。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。

O2は長江文明の担い手だと考えられている。O2が移動を開始したのは 2800年前である。長江文明の衰退に伴い、O2は南下し、百越と呼ばれた。残りのO2は(舟で長江→沖縄→本土→朝鮮半島の一部(百済)へ。一部は陸路で山東省へ)北上し、日本に達した。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる。


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図: 山東省の位置(長江河口の上海の向かい側には沖縄本島がある。現在の海流の流れでは黒潮本流があり、日本列島に流されてしまう。一緒に犬も連れてきた)。


日本列島の特異な点は、D2やO2など、大陸では漢民族に駆逐され、敗者となった集団が、絶滅せずに混じり合って存在していることである。その他にもC1,O1,O3など多様な遺伝子集団を吸収し、保持し続けている。←(rinax注: 朝鮮半島では民族の同質化が進んでいる点が違う)

日本語の起源は、従来アルタイ諸語やオーストロネシア語族との関連が想定されてきたが、比較言語学的にはまだ証明されていない。長江文明の担い手のO2は、オーストロアジア語族だったと考えられる。南下したO2では言語を保持しているが、北上したO2では、朝鮮半島でも日本でも元の言語を失い、移住した土地の言語を受け入れたと考えられる。←(rinax注: アルタイ諸語とは、モンゴル語、ブリヤート語、トルコ語、ウズベク語、カザフ語など。シベリア系???)


縄文時代の人々の交流は広い範囲にわたり、時には環状石籬(環状列石)、巨木工事のような大事業を起こした。縄文人は、旧石器人を基調としつつ、旧石器時代末期に細石器文化を持って北方から渡来した原モンゴロイドや南海から渡来したオーストロネシア語族、さらに中国の長江下流域から照葉樹林文化を携えて渡来した集団など幾派もの移住が重層して形成されたと考えられる。

現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。

イネの品種には、ジャポニカ(日本型)・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)があり、ジャポニカは更に、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカに分かれる。

温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるという。


熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なりながら、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついているのが特徴であるという。

列島へは、まず、熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播したという。温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、DNAの多様性が半島の方が少ないことから南方経由の可能性が高いとされる。

ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。←(rinax注:「五穀豊穣」だ。)


日本の歴史

<旧石器時代>
旧石器時代の人びとは多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、そうしたなかにあって少ないながらも竪穴住居が見つかっている。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られている。

住居は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもので、形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。

調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたことがわかる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がない。

そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前にはできていたらしい。呪術的なものとしてつくられたらしい高さ約9センチ、幅2〜3センチの「こけし」形の石偶(せきぐう)が出土している。また、礫に細い線で動物を描いたもの(線刻礫)も見つかっている。旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。

旧石器時代の港川人は、1970年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志堅村)港川採石場で数体の人骨化石が実業家・大山盛保によって発見された。人骨は少なくとも5体をかぞえ、男性2体を含むという。約1.8万年前とされる。縄文時代が約1.3万年前から始まるとされていることから、更新世末及び後期旧石器時代末にあたる。顔は四角く、目は窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であることなど現代日本人とは全く違っていて、縄文人と似ているところが目立つ。←(rinax注:旧石器人はモンゴル系なのか???)


<縄文時代>
縄文時代早期(約10000年前〜6000年前):人口2万100人。犬を人と一緒に埋葬。屈葬。←(rinax注:犬って、オオカミを飼い慣らして派生したものか? 原モンゴロイドのシベリア系?)

縄文時代前期(約6000年〜5000年前):耳飾り・勾玉・管玉などの装身具がつくられる。立石列(りつせきれつ)環状石籬。貝塚。竪穴住居が広場を囲んで集落をつくる。湖沼の発達により丸木船がつくられる。漁労活動開始。木器・土器・櫛などに漆を塗ることが始まる。環状列石がつくられる。人口10万5500人。←(rinax注:すごい人数の増加! 長江文化の民族の到来か?)また、これから1000年後の縄文中期には人口がこの2.5倍の26万1300人に大幅増加する。しかし、その2300年後の縄文晩期には、人口7万5800人と全盛期の30%にまで激減する。

縄文時代晩期には、環境の変化で気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。


日本語はシベリア系だったんだ、きっと。支配者以外の海外移民をすべてを包含する豊葦原瑞穂国と豊饒の海の混淆、大和民族。←アルタイ諸語の大和言葉の国。



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